「やはりそう来たか…。して、親父殿は何と申された」
「庶子とは申せ、大殿にとってはお愛しき我子。人質交換はやむを得ぬと」
「さもあろうな」
信長がやるせなさそうな表情を浮かべると iambravesteve.wordpress.com
「殿。あの竹千代殿が、今川氏の手に渡ってしまうのですか?」
後ろで話を聞いていた濃姫が、深刻そうに訊ねてきた。
「致し方あるまい。竹千代は元々、今川家に人質に行く身の上だったのだからな」
「お寂しゅうなりまするな…。良き子でございましたのに」
「じゃが下手に交換を断って、この無用な争いを長引かせるよりはずっと良いであろう」
信長は半ば自身に言い聞かせるように言うと、スッと秀貞に横目をやった。
「佐渡、竹千代の身柄はいつ今川に引き渡される予定だ?」
「今日明日にも」
「ならば、竹千代を直ちにこちらへ──」
信長の命により、那古屋城の広間へ召し出された竹千代は、黒漆が塗られた総床板の下段に腰を据え、
上段の中央で胡座をかいて座る信長に対して、深々と一礼を垂れた。
これが最後の対面になると本人も分かっているのか、これまで以上に礼儀正しい低頭であった。
上段の左端には濃姫も控えており、“人質仲間”とすら思っていた竹千代の旅立ちを、静かな面持ちで見守っている。
「短い間ではございましたが、信長様には一方ならぬ御厚情を賜り、この竹千代、恐悦の極みに存じます」
「竹千代──」
「信長様に出会い、共に野山を駆け回り、槍や鉄砲の稽古に勤しんだ日々は、本当に楽しゅうございました。
人質の身であるにも関わらず、何かとお目にかけて下さった御恩、決して忘れませぬ」
「ああ、儂も楽しかった。時折そなたが、年の離れた実の弟のように思えてならなんだ。
このままそなたを側に置いておければ、どんなに良いか…。
そんなことを思うてしまう程に、そなたと過ごした日々は有意義なものであったぞ」
「勿体なき、お言葉にございます」
「竹千代殿──。あちらへ戻っても、これまで通り変わらず、健勝にお過ごし下さいませ」
濃姫が懇ろに声をかけると、竹千代は小さく頷いて
「有り難う存じます。どうぞ姫君様も、いつまでもお健やかに」
と、ゆるやかに頭を垂れた。
竹千代は顔を上げ、今一度信長を見据えると、幼顔に強気な笑みを湛えた。
「信長様。向こうへ戻っても、わたしの身は今川家の人質なれど、いつか…いえ、必ず、三河を我が物にしてみせまする。
その時は、信長様と同盟を結び、賜りました御恩を、改めてお返し致したいと存じます」
竹千代の発言に、信長は一瞬言葉を失ったが、ややあってから、明るい笑い声を響かせた。
「同盟か、それは良い!その言葉、決して忘れるでないぞ!」
「無論でございます。何があっても忘れませぬ」
「お濃!」
「は…はい」
「そなたが立会人じゃ。今の儂と竹千代との約束、よう覚えておけ!」
笑顔で告げて来る信長に
「承知致しました。しかと覚えておきまする」
濃姫も、笑顔で言葉を返した。
こうして織田から今川の元へと送られた竹千代だが、此度の一件で三河の国は今川家の属領となっており、
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